宇宙と神と生命
novel

宇宙と神と生命~序章~
新しい季節

 人類に宇宙を定義する事は出来ない。
 何故なら、宇宙は無限で人間には計り知れない、決して無くなる事、死ぬ事の無い永遠の命を持った神だからだ。言葉を変えると、神という言葉を用いる対象は、太陽系、銀河系、天の川銀河、銀河団と次々と範囲を広げて行っても、終りの無い悠久の時間と空間と物質量を持つ、生命の総和である。この総和という言葉自体が人間が作り出せた最高の言語であり、神を語るには相応しく無い。つまり無限∞の限界が無いもの自体が神なのである。
 地球上にある全ての資源は有限であり、無限に降り注ぐと思われていた太陽の光、光子でさえ、あと50億年しか光輝かないからだ。その内に、太陽は膨張をし続け、赤色巨星となるが、太陽に地球が飲み込まれる前に、地球という惑星が太陽系の周回軌道に存在しているはずがない。太陽と、9つの惑星の遠心力と向心力のバランスが、既に壊れるからだ。  一方で、星系は、宇宙の中で再生される。恒星、銀河もその一つであり、今の人間には理解出来ない程の膨大なエネルギーにより、また違った形で産声を上げる。最近のここ100年間の人類の宇宙研究は進んでいるが、宇宙がどうして産まれたか、また正体は何なのかの議論がなされていない。宇宙は無から産まれた説もあれば、巨大な1つの元素であったという説もある。しかし、無からは何も産まれないのは、物の道理である。
 詰まり、宇宙には無限の悠久の命があったという説が正しい。その物質量、時間の流れ方、空間の広がりは無限で、計算は不可能。
 定義とは、有限の物を理解できた時に初めて成り立つ。例えば、リスとネズミとハムスターを定義する時に、人は形で判断する。しかし、現在の発達した遺伝子科学によっては、リスの形をしたネズミも作成可能だし、整形外科技術によりハムスターの形をしたネズミも存在できる。
 だから、人間の定義自体が、何をもってその物を、ある物と定義するかが、難しい議題になる。
 
 「1+1=2」は常識で、誰でも理解出来る。しかし、これは損失を考えない条件上に成り立つ架空の計算で、質量の上でのことである。同じ質量の粘土を2つ混ぜ合わせれば、1つの塊になり1である。リンゴを2つ持ってくれば、それは2つである。
 一方で、水、又は空気を定量混ぜ合わせて容器に入れても、「1+1=2」にならない。化学反応が起こる理由で。だから、理論と実践はかなりかけ離れた所に存在する。
 
 日本の古い神話では、4大神が空間に溶け込み、宇宙となったとある。これは、恐らく弥生時代以前の縄文時代から、人々の間で語り継がれてきたものだ。一方で、西洋の4大大天使の話しがある。東洋と西洋では、共通した神話が存在するのだ。
 また、地球の各地で太陽神信仰が存在している。しかし、これは明らかに間違いで、太陽は、我々の住む銀河系で約3000億個あると言われる恒星の中の一つの小さな恒星であり、それを神と置くのは無理がある。
 また、宗教の盛隆と科学の発達において、常に議論に上がっていたのが、天動説と地動説である。これは、科学の発達により、地動説が正しいという事で落ち着いているが、銀河系自体がゆっくりと回転しているので、また地球の自転さえも知らなかった時の議論であり、とても稚拙な2つの言葉であると現在は言える。
 
 科学的に宇宙を見た時、殆どの宇宙科学の教科書では、宇宙は何もない無から発生したとある。無というものは、空間も時間も物質もない状態の事であり、そんな状態を人類は想像する事が出来ない。無と言っても、どうしても空間の存在を否定出来ないからだ。だから無からは何も生まれない。むしろ、宇宙は無限に空間の広がる、中心の無い、時間的に各所で異なる、物質量的に無限大なものであると想像出来る。それを宇宙の『あわ構造』と言い、平面的と考えられている『あわ構造』も、複雑構造、若しくは多層構造でできているのではないか。
 現在の人類の観測能力では、宇宙全体を把握するのは困難であり、また永遠に不可能であろう。
 
 宇宙がどうして存在しているのか? 宇宙がどの様にして出来たのか? 宇宙がこれからどうなっていくのか? これらは、宇宙の存在と、神の領域の議論の的である。
 この物語は、宇宙の中のほんの点にも満たない、太陽系の地球上での物語を、本来なら宇宙的観念で語らなければならない事を、人間的観念で語っていくものである。

第一章
浪人

 寒い厳冬の2月が過ぎ、春の息吹を感じさせる3月の初めに入って8日が過ぎた。
 横浜市栄区の小高い高台にある実家の庭の軒先で、長椅子に座り初春の少し暖かい日差しの下、未だ北から吹く冷風に頬を照らしながら、日向ぼっこをしている。人の気も知らない雌の雑種の飼い犬が、庭を駆け回り、時折、飼い主である私、大島 直弘の左指先を舐めて、飼い主への愛情を示している。だが、直弘は何も反応をせずに、ただ、何も考えずに、庭先を見詰めていた。

 既に、第一志望の東北にある、旧帝国大学前期行程の入学試験は不合格だった。つい先日の仙台への新幹線の1泊2日の入学試験の小旅行が終わり、10日後に送られて来た郵送での試験の合否結果に、私の受験番号は無かった。
 見間違いは無いか、3度、受験番号の若い数字から順に、自分の受験番号周辺を細やかに重点的に見ても、私の受験番号の周辺の人の番号は載ってあるが、自分の番号は補欠合格にも無かった。
 やはり、もっと偏差値を下げた地方の国立大学を受けていれば良かっと後悔もしたし、受かる自信もあった。しかし、プライドが許さなかった。大学に行くと決めた時から、子供の頃から受けてきた高等教育で、常に理系科目の成績が良かったので、必ず有名国立大学に入学すると決めていた。
 既に、滑り止めの私立大学は合格していたが、受験科目も少なく、大学の印象が薄っぺらく、国立大学後期日程が不合格でも、行く気は無かった。

 後期試験日程は明後日に名古屋市で行われるので、勉強の合間に、目と身体の疲れを自宅の広い庭で癒している。姉は地元、横浜市の国立大学に通っていて、弟も見事、東京都にある理系専門の最高偏差値の国立大学に合格した。直弘だけが、独り取り残されている。
 今更、焦っても仕方が無いと、直弘は腹を括っている。一般の大企業に大学卒業後に就職出来るのは2浪までと、父から教えられていた。次の名古屋市にある旧帝国大学後期日程に落ちれば、国立大学医学部を目指す積りだった。要するに、背水の陣なのだ。
 しかし、何故か直弘は落ち着いている。勉強で、やれる事は全て終えた。参考書も穴が空くくらいに読んだし、過去問も解いて来た。残るは、体調を万全にする事のみである。

 後期試験が終わって、名古屋から自宅へ帰ってきた直弘は、弟と予ねてから予定していた計画を実行する事にした。サーフィンを始めるのである。
 直弘は、浪人時代に自動車の免許を取っていた。弟は勉強のし過ぎで血尿を出す程の秀才だが、高校を卒業して直ぐに、要領よく自動車の免許を取っていた。条件は揃った。
 直弘一家は、直弘が中学を卒業する時に、同じ横浜市内でも、東京湾沿いの金沢区から栄区に一軒家を買い移り住んでいた。場所はJR根岸線の本郷台駅周辺で、藤沢市と鎌倉市と境を持つ栄区なので、当然、近所にサーファーの人がいた。そんな人達を見て、兄弟は大学に受かったらサーフィンを始めようと誓っていたのである。
 取り敢えず、二人は電話帳で江ノ島の腰越海岸にある、1軒のサーフショップを調べだした。何故、そこを選んだのかというと、ハワイの大王の名前が店名だったからで、店の雰囲気など知る由も無かった。

 早速、二人は、家族共有のセダンの自動車に乗り、そこの店を訪れた。道順は、JR東海道線と根岸線と横須賀線の分岐点である大船駅の西の国道302号線を柏尾川沿いに南に下り、山崎跨線橋を東に渡ってから、国道304号をひたすら南に下る経路を選んだ。兄弟は変な興奮状態で、未知の世界に1歩ずつ近付いている気分だった。
 周辺に来ると、車を徐行させて、運転手である弟と助手席に座る直弘で、顔を左右に揺らしながら店の看板を探した。店は車線と反対側に存在した。白い看板に、サーフショップのロゴが書いてある。
 車を展開して、店の入り口の少し先に停めた。興奮状態と緊張がピークに達した。正直、兄弟はサーファーが怖かった。サーファーというと、格好良いという印象とガラが悪いと両方の印象を併せ持つからだ。店内には、ガラス越しにレジカウンターの所に、1人の肌の浅黒いセミロングの髪の毛をした若い男性が立っていた。
 二人が店に入るのを躊躇していると、
「何か?」
と、その男性が平静に尋ねてきた。
 直弘はサーフィンをしてみたい旨を男性に伝えると、店の中に二人を案内してくれた。「何がしたいのか?」と尋ねられたので、二人は「短いボード」とだけ答えた。それから、その青年のボード選びの講釈が始まり、ウエットスーツの話し、滑り止めワックスの話し等、多岐に渡った。
 直弘は、迷わずその店のロゴの入った、日本のサーフボードメーカーの中古ボードを選んだ。約7万円との事だった。直弘は昔から、物を選ぶ選物眼があって、丁度6インチのボードという説明と、中級者まで使えるとの説明で、一発で気に入った。弟は、その男性が自らシェイプしたという真白で無地のボードが気に入り、それを購入した。また、真冬なので、ウエットスーツも必要との事で、それぞれ体に合った物を試着して購入した。付属品はサービスで付けてくれた。
 支払いは、当然、兄弟にはお金が無い。
「母のクレジットカードで支払いは良いですか?」
と、恥ずかしそうに直弘が言うと、男性が薄黒い表情を崩し白い歯を見せた。男性は私立大学を卒業してボードを削っているライダーとの事で、年齢や住んでいる場所等、話が弾んだ。

 そんな時、店に3人の男性達が入ってきた。髪が濡れていて、それぞれ脇にボードを抱えている。3人とも、体つきが太く、がっちりした体型をしている。
 二人に軽く声を掛けてきたが、やはり少し人種が違って、どこかしら恐く感じた。
兄弟は帰る旨を、店員の男性に伝えると、男性は家までボードとウエットスーツを送ってくれると申し出た。やはり、カードで購入するという事で警戒しているのだろう。直弘は自分で持って帰ると言った弟を制して、
「では、お願い致します」
と答えた。店の位置は解っているし、領収証も頂いたので、二人は男性を信頼していた。兄弟は店を後にして帰路についた。
 当日の夜の19時頃、その男性が、ボードとサーフィン道具一式を届けにきた。母と兄弟で、未だかと待ちわびていて、玄関で一通り談笑して、男性は頭を下げて帰って行った。その日から、大手企業で共働きで働く母の自慢は、息子達が湘南ボーイでサーフィンをしているという事だった。
1週間後、直弘の元に国立大学の合格発表通知が届いた。直弘の受験番号は、その中に無かった。これが、直弘の人生の分岐点となって行った。

第二章
挫折

 太陽系について語ると、現在は本当に小さな天体である。恒星1個とそれを公転する9つの惑星と、その他小惑星群からなっている。そこに、偶に、彗星が顔を出す。常識だが、彗星は、実際はそれ自体、燃焼して光を発しておらず、恒星とは異なる移動の激しい大きな星の事である。
 しかし、太陽系の第3惑星で月を衛星に持つ地球に生命が誕生した。今の太陽系は、9個の惑星を持つと解っているが、人類の歴史上、過去には目視では観測出来ない惑星も存在している事が後に判明した。
 この事から推測すると、10億年前には、若しかしたら太陽系には13個の惑星があった可能性もあるし、もっと多くの惑星が太陽の周りを公転していたかもしれない。何故なら、太陽は誕生した時から質量を徐々に失い、軽くなってきているからだ。それが、太陽の質量の変化や、惑星の自転軸のずれや振動による公転軌道異常、大きな彗星の衝突、その他もっと大きな要因で、惑星を消失した可能性も考えられる。
 恐らく、地球は、10億年前にはもっと太陽に近い、公転半径の小さい場所を楕円軌道で公転していたはずだ。それが、地球上の生命の発生と、大きく関係している。つまり、現在の地球は、現在、最も生命にとって住み心地の良い環境なのだ。生命が春を謳歌出来る環境にある。
 
 これは、恐竜の絶滅にも大きく関係している。数億年前は、今の地球と大分、環境が違い、宇宙線の影響を直接的に生命が受けたり、オゾン層の未発達、大気の成分の不安定さ等、様々な要因で、生命の種が身体に甲殻を持たせたりし進化せざるおえなかった。
 そして、現在唱えられている一説の、地球への巨大隕石の衝突説による、地球環境の変化だ。地球を取り巻く大気が重厚になり、太陽光が届かなくなり氷河期が到来した。氷河期は、その後発生する哺乳類には格好の環境であったに違いない。
 氷河期と間氷期を繰り返し、数万年前に温暖な間氷期に入った。そこで、対内温度を自由に調節できる恒温動物で、二足歩行を出来る人類の時代に突入した。
 二足歩行を初めて出来たのは、恐らく、尻尾があったが恐竜が最初で、その後、空を自由に飛び回る事が出来る鳥類へと進化していった。人類が初めて二足歩行をした地球上の生命というのは誤りである。
 この二足歩行というのは、高度に生命が発達する為の必須条件である。何故なら、手を使用する事が、道具を使う事が出来る条件であるからだ。道具を使う殊により、人類は百獣の王と言われるライオンをも倒す事が出来る様になった。

 そして、人類でよく言われる言葉。衣食住である。鳥は、木の枝で巣を造ったり、木の穴を巣に使っている。だが、常に他生物から子供を守らなければならない、危険性を伴っている。人類はその問題の3つを解決した。
 まず、衣である。寒冷地では厚着をし、温暖地では薄着をする。これにより、気温の変化、季節の変化に対応出来る様になった。
 次に、食である。人類は、食べ物を追う遊牧生活から、食べ物を育てる定住生活に移行してきた。それにより、仕事の分担が可能になり、一気に文明が発達した。
 最後に住である。人間は屋根を開発し、扉を開発し、最後に家を開発した。家は、他生物から、一日中、身を守る防衛手段となって、人類に安眠をもたらした。その為、人類は脳が異常に発達した。これは、他の生物には不可能であった、最高の発明だった。

 いよいよ、サーフィンの初日の日が来た。初春の湘南地方は未だ寒く、北風が吹くため、なかなか波が立たない。俗に言う、オフショアというもので、陸から海へ向かって風が吹くため、海から陸に向かう波が抑えられて、浜辺に波が着く頃には、フラットになってしまうのだ。
 直弘と弟は、毎日、鎌倉の由比ヶ浜から大磯港まで、国道134号線を車で流して、波を確認した。冬の太平洋だから、当然、波は無い静かな海である。波の見られるポイントは、防砂林等の問題もあり、限られる。一番波がよく見えたのは、茅ヶ崎の西にある相模川にかかる湘南大橋だったので、そこから見える小湾内が何時もパーフェクトウエーブに見えた。
 4月中旬のこの日、台風第1号が発生して、太平洋上を四国地方に向かって北上していた。
 直弘は、海外のプロサーファーの鮮やかなライディング集のDVD映像を見て、子供の頃から運動には自信があったから、当然、自分にも直ぐに同じ様に出来る積りでイメージトレーニングしていた。弟は、大学の履修登録を終えて、友達が出来た話等を、直弘に話していた。そしてひと段落落ち着いた時点で、では本日、サーフィンデビューしようという事になっていた。

 まず、藤沢の湘南新道を通って辻堂の海岸に出てから、国道134号をひたすら西に車で走って、茅ヶ崎のサザンビーチで路駐して、浜辺まで出てみた。すると、5メートルはあろうかという大波が海岸から30メートル程の所でチューブを巻いていた。サーファーの姿は辺りに見掛けられない。直弘が「ここで入ろう」と言うと、弟は必死に制止した。話し合った結果、湘南大橋から見える相模川の河口で、いつも数人のサーファーが華麗なライディングをしていたのを見ていたので、そこで入れば安全だという結論になった。
 湘南大橋の地上から30メートルはあろうかという橋の上に差し掛かり、河口を見下ろしてみると、湾内は波が荒れ狂っているが、奥まった河口内の防波堤の横壁から、波が直角三角形のような綺麗な割れ方をしていて、サーファーも数人入っているのが見えた。
 直弘は、では「仕方がないからここで入ろう」と弟を説得して、嫌がる弟と入念に準備をしてから、橋下の桟橋から、二人同時にボードを抱えて、川の中に飛び込んだ。

 必死だった。家の部屋の床の上にボードを置いてそれに乗り、パドリングの練習をしたが、実際の海面の上ではボードの上に安定してうつむせになり、クロールする事さえ出来ない。川の流れが、物凄く速くて、どんどんと河口の沖に流されて行くのだ。
 直弘は、全身の体力が一気に消耗していくのが解った。戻るより進めだ。直弘は対岸目掛けて、溺れる様な無茶苦茶なフォームで漕ぎ出した。空が曇っていて薄暗く、視界が悪い。
 対岸の砂浜に直弘が着いた時に振り返ると、弟は遥か遠方の河口の出口付近まで流されているのが見て取れた。急いで、救助に向かおうとしたが、何も良い考えが浮かばず、脱力感で動けさえしない。
 呆然と弟を見守っていると、防波堤の岸壁に人だかりが出来ていて、弟をロープみたいな物で引き上げているのが見えた。弟が、防波堤の上に助け上げられるのを見て、直弘は胸を撫で下ろした。心臓が激しく脈打ち、破裂しそうな中で。
 直弘は遠回りして、大橋の上を渡り、元いた駐車場の所に駆け付けると、弟は激しく直弘を罵った。 「だから言っただろ。今日は止めようって。もう、直弘とは一緒にサーフィンに来ない。大学の友達と、鵠沼でサーフィンをする」
 直弘は言い返す言葉も無かった。入学試験に落ちて、サーフィンの厳しさも味わって、二重の挫折感だ。これが、劣等感というものかと、直弘は人生の中で初めて感じた。

第三章

 人間の善悪の判断は難しい。
 太古の時代、猿人、又は原人と呼ばれる人々は、共同生活の中で、貧富の差は無く、平等に物を分け合っていたという。村落で村長、酋長がいて、神の言葉を聴く巫女の様な者がいて、戦争も無く暮らしていた。
 マンモスの狩りを例に挙げても、皆で協力して狩りをし、その獲物を平等に分け合っていたと聞く。そして、その獲物の一部を、神への貢物として、捧げていた。
 それが、農耕時代に入り、食物を蓄える事が可能になり、貧富の差が生まれ出した。日本では、江戸時代に商人が台頭してくるまで、米を貨幣と同等の物として扱い、備蓄して部下に給金として配ったり、戦争の時の備えとしていた。

 弥生時代、古墳時代には、迷信もよく存在していた。少し人と違う姿、格好をしていると、妖怪と恐れられ、山の奥深くにそれら異民族を追いやってきた。
 それらの人々は、現在では突然変異、又は違った民族の者、身体が極端に大柄な者、小柄な者、身体の何処かに少し変わった所が有る者と常識的に理解出来るが、当時は違っていた。
 例えば、森の中で熊を見掛けたり、日本であり得たか想像できないがゴリラの様な生命に初めて遭遇したら、それらを異形の者として村に伝わり、妖怪伝説が出来ていたかもしれない。単に、体毛が異常に濃いだけでも差別の対象になったはずだ。
 また、善悪の判断によく迷信が用いられた。鹿の角の割れ方で、その年の村の運勢を占ったり、嘘をついているかどうかに、熱湯に手を浸けさせて爛れるかをみたりした。今日では、それは常識的に、科学や医学で証明できるが、当時は違った。
 しかし、だからと言って、人間中心で宇宙が回っていると勘違いし始めてはいけない。世の中で起こっている偶然に思えるものは、全て宇宙の中では意味を持つ。

 悪い事をすると悪人顔になり、善い行いをすると善人顔になる。それは、心の中では自分の本心は偽れないからだ。
 先に述べた妖怪の類もその例だ。実際に、東洋で言われる妖怪、西洋で言われる悪魔は、近しい関係にあると考えられる。それらは、物や人間にとり付き、人間の脳の働きを狂わせる。そして、それは親から子へ、子から孫へ遺伝的に受け継がれる。何故なら、進化の過程で、ある人間が経験した事は、その人の遺伝子に情報として蓄積される。
 古い言葉で、『人の振り見て我が振り直せ』『あの親にしてこの子あり』等、様々な諺が存在する。一緒に生活をしている者同士、何故か振舞いや、姿形が似てくる。友人や夫婦や家族、様々な形で。同一民族や、同一地方に住む人達の習慣としても。
 『類友』と一言で言ってしまえばそれまでだが、様々な要因が考えられる。教育、食生活、血縁、等様々である。

 地球上で法律なる物を作ったのは、人類が初めてだろう。
 しかし、日本と外国を例に挙げても、それらは民族間で異なる。まずはドラッグ問題である。幻覚を見るドラッグが違法の国もあれば、合法の国もある。また、特例で、医学的に苦痛の緩和の為に使用を限定的に許可している部分も存在する。
 次に、銃の問題もある。日本では、基本的に拳銃の所持は違法だが、軍隊、警察官の所持は認められていて、猟友会なる団体も存在する。時々、それらの誤使用のニュースを耳にする。また、拳銃を所持する事を許されている国から無許可の国へ、無許可の国から許可の国へ行った時の、認識の格差も大きい。要するに、無許可の国の人から見ると、許可されている国から来た人達は暴力的に見えるのだ。その国の感覚の歪みは大きい。
 また、同じ国によっても地域で、法律の格差がある。日本でいうところの県の条例や、外国の州毎の条例だ。税金の問題、労働問題、犯罪の問題等、例を挙げるときりがない。
 要するに、現代人は、その国の法律に縛られている訳だが、人間は自国の法律について学ぶ機会も無ければ、それら全てを頭に刻み込む事自体不可能と言える。
 人間は必ず小さな法律違反を誰しも犯している。法律の改定が偶に行われているが、それすらも国民の隅々には、伝わっていないのが現状だ。

 小さな罪を1つ、また1つと積み重ねて行くと、いつか大きな罪を犯す。これは、慣れと、感覚の麻痺からと言える。交通違反についてもそうだ。
 交通事故というものは確率の問題だ。いくら悪質運転、暴走運転、危険運転、スピード制限違反をしていても、事故を起こさない人は、決して起こさない。個人、各自で視力、運動能力、反射能力に差があるのも一因だろう。
 逆に、温厚な安全運転をしている人でも、交通事故の多い人がいる。これは、交通事故が、自分側、相手側のタイミングが合った時に起こり得る事だから。
物体に例えると、2台の車があったとしよう。同じ車線の1台の車の後を、もう1台の車が追走している場合を考える。1秒前の過去に、前の車が存在していた場所に、1秒後に後ろの車が存在している。時間と空間と物体の3大定理とする。それらは、個々に独立していて、互いに干渉していない。
 人間に例えると、混雑した駅の改札口に、人がごった返している場合。人は互いにぶつかる事はあっても、重なりあう事は無い。下品に例えるなら、同じ身長の男女が、同じ直線上を同じ向きに歩いているとすると、この2人は常に間接キスをしている様なものだ。
 時間、空間、物質。この3大要素でこの世界は成り立っている。

 弟にサーファー友達が大学で出来た。だから、週末になると毎週、神奈川県に住んでいる同大学の弟の友達が家に迎えに来て出掛けて鵠沼へ行った。
 5月のゴールデンウイーク明けに、直弘は親に30万円のお金の借金を申し出た。1ヶ月で10万円の生活費として、3ヶ月間、伊豆の東海岸にサーフィンの武者修行に出掛けると親に言った。
「勉強はどうするの?」
と、母に言われたが、
「9月から始める」
と、直弘は両親に言った。
 母は大企業で働いていたので体裁上、周りに息子の一人が医学部を受ける為に浪人していると言っていた。寝泊まりは、家族共有のセダンでするから大丈夫と親を説得した。それで、銀行の口座にお金を振り込んで貰い、サーフボードと服等を車に積み込み、夕方から家を出て行った。
 それまで数週間、サーフィンをしに海に一人で通ってみて、パドリング以外、何も出来なかった。海に入っていると周りの皆が、簡単にテイクオフをして、ボードのノーズの裏面をこれ見よがしに見せ付ける。劣等感と無力感で、打ちのめされていた。

 夕方に家を出て、国道134号線に出て海岸沿いを西に走っていると、大磯港の手前で西湘バイパスに乗った時に、丁度、日が暮れようとしていた。
 西日で海面が橙色に照り返していて、地平線が夜空と境界線を無くして見えた。
何故、伊豆を目的地にしたかというと、なるべく人の少ない場所で数を乗りたかったからだ。鵠沼には正直、嫌気がしていた。サーファーとサーファーの間隔が1メートルも無いくらい混雑していて、初心者の直弘が波に乗れる事が出来ないのだ。それに、周りのサーファーが皆、貪欲で逞しく思えて委縮してしまう。大礒でも何度か入ってみたが、やはり鵠沼の波より難しかった。

 夜通し車を走らせて、取り敢えず下田くらいには行きたいと思ったが、渋滞につかまった。それで、仕方無いから、家族旅行で行った事のある熱川の海岸線に降りて、車の中で一泊する事にした。
 ガソリンを消費させない為に、道路脇に車を停めて寝ることにした。運転席のシートを後ろに倒してドアをロックして、真っ暗闇の中寝ていると、1時間くらいで息苦しさで目が覚めた。暴漢に襲われたら怖いのでガラス窓を閉め切って寝ていた。仕方が無いので、運転席と助手席のウインドウを10センチくらい開けて寝ていると、今度は顔や首筋の痒みで目が覚めた。蚤かダニが原因かと思ったがどうやら蚊が原因らしかった。仕方が無いから、エンジンを付けたままでその日は寝た。
 翌朝になり、辺りが薄明るくなってきたので、渋滞に巻き込まれる前に車を走らせる事にした。
 左側に見える海岸線を見ながら、サーフィンが出来る浜を探しながら車を走らせた。しかし、どこも岩礁の浜でなかなかビーチが見当たらない。結局、国道135号線を南下して、白浜に出てしまった。ここも、サーファーが多いし、車を停めてライディングを見ていると上級者ばかりである。それで、そこでのサーフィンも諦めた。
 下田を過ぎて、更に南下していくと、ビーチの小さな標識が出ていた。辿り着いたここが、この物語の始まりの場所、伊豆大浜だった。

第四章
大浜

 時間の流れとは不思議である。
 人間は、太古の昔から、時間を計る目安として1日という単位と、春夏秋冬という季節、1年が365日である事を、計測なり、経験値で知っていた。正確には、地球が太陽の周りを回る周期が、365日から僅かにずれているので、閏年というものを4年に1回作り、2月のひと月の日数を1日増やす事で調節してきた。
 物事を計算するには、必ず物差しがいる。時間もその一つである。それが、昔から現在に至るまでに変化してきた。現在の時間の測り方は、インターネットなりで調べる事は簡単である。現在は秒という最小単位が用いられていて、1秒の定義は、セシウム原子の放射の周期が何たらかんたらである。

 そう言った事はどうでもいいと考えられる。何故なら、地球上での条件を限定してあげて初めて、成り立つ近似値だからだ。
 世の中に絶対的なものは存在しない。もし、仮にそんな、全く瓜二つの微粒子で世の中の物質全てが構成されているとしたら、それは神の技だ。神が、その製造能力で、作り上げた最高の芸術品で、クリアランスとトレランスがゼロのもの。そう定義出来る。
 重要なのは、宇宙の歴史の中で、時間が普遍的に流れているかどうかである。仮に宇宙の歴史を語る時に、100億年前と、現在での時間の流れ方に、違いがあるかどうか。
 恐らく、時間の経ち方は加速なり、減速なりしているはずだ。もっと難しく言えば、川の流れに例えられると思う。ある観測地点では、急流で時間の経ち方が速く、ある観測地点では水の流れが対流している様に穏やかに時が経つ。若しかしたら、時が止まっているに等しい観測地点もあるかも知れない。
 また、地震等により位相が変われば、地形の高さが逆転して、逆向きに時間が流れ出すかもしれない。また、それが海に辿り着けば、流れは停滞し、やがて蒸発して雲となり、山の頂上に雨が降り注ぐ。そうして、また違った川が出来て、そちらに時間が流れ出す。

 だから、宇宙は無限の時の流れの中に存在していると考えられる。これはあくまで哲学的な考え方であり、実際は神の天文学的数値計算の上で、宇宙は動かされているのである。
 川の考え方で、時間の経過を解釈すると、100億年前の時間の流れ方は現在より急流で、時間が速く流れていた事になる。これは、生命にとっては逆に感じられて、現在の1秒が2秒の時間的感じ方をしていたかも知れない。
 実際、人間が仕事をしている時、遊んでいる時、睡眠を取っている時では、時間の感じ方が違うが、時は無情にも同じ間隔で過ぎて行く。難しい話だが、やはり時間は、宇宙の位置、時代によって必ずしも同じ速さで流れていた訳では無いと考えられる。

 連続した時間とは、神、宇宙∞のみにしか造り出せない時間の事である。この連続した時間が、断片的時間となると、どういう事が起こるか? 時間が飛ぶ、時間に空白部分が出来る、時間のバグである。
 よくテレビで流している映像は、高速連続写真を組み合わせているものであると、ご存じだろうか? 1秒間に何十枚、何百枚と撮った写真を、連続的に時間が繋がって流れている様に見せたものなのである。これが、人間が造り出せる現在における連続的に近い、非連続的時間である。
 アニメを想像して欲しい。原画を少しずつずらした絵を何十枚と書き、それを1枚1枚写真の様におさめて、さも主人公が活発に動いている様に見せている。
それと同様に、テレビカメラマンが背中に担いでいる映像カメラも、撮影している対象、景色、人物を断片的にデジタル写真にして、連続的にそれを放送で流している。だから、編集部の人は、映像をコマ送りして時間を調節し、場面をカットしたり、映写時間を調節している。
 これが、人間の限界である。写真もそれが言える。一瞬の時間の静止した状態を、フィルムに収めているに過ぎない。

 一方、宇宙はどうだろう。地球上でも、人は連続した時間の中で生きているから、その生命を失わない。一言で言うなれば、断片的で無い連続的な流れである。だから、もし宇宙が造り出した時間の流れに断片的な所があると、恐らく、その時間の狭間に何らかの歪みが生じ、物質、空間に影響を与えるだろう。
 先に、空間、時間、物質は独立していると述べた。しかし、これは正確では無く、高重力場の近くでは、空間が歪められるし、時間にも狂いが生じるはずである。人間の一生は、この宇宙が造りだした、連続した時間の中にいて、地球上でその恩恵を被っている。
 例えば、昔、ワープ航法は、空間を折り紙の様に曲げて、その端と端をくっつければ可能なのではないかという説があった。空間は紙切れでは無いので、当然、こんな事は不可能だし、時間という連続した物がどう変化するかの考えが及んでいない。ここまでくるとSFの世界の話しになってしまうので馬鹿馬鹿しい。
 宇宙が造り出している連続した時間の構造が解れば、断っておくがこれは神への挑戦では無く、非現実的な事だが、何かしらの答えが得られるかも知れない。

 先程、宇宙全体が1つの時間の流れをしていなくて、局所的に時間の流れ方が違うはずだと述べた。これはほぼ正しいと考えられる。では、その流れ方の違いを生みだしているものは何か。ここに考えを及ばしてみたい。恐らく、銀河の重量であったり、それより大きな銀河団の重量であったり、『あわ構造のあわの部分』であったり、また反対に、銀河も何も無いボイドでの無質量状態(現実には無質量では無くダークマター等が存在しているが、観測不可能)であったりするはずだ。
 この時間という概念が一番、宇宙を考える場合に難しい。物質はまず、人間にも簡単に理解できている概念だ。空間も、比較的に理解し易い。この2つは人間にも簡単に切り取る事が出来る。
 仮に、金属製箱の中に、空気と閉じ込めた場合を考える。その箱を手で振ってみるとなると、中の空気物質だけは、完全に金属製容器の中で、内壁に衝突して密封出来る。しかし、空間は、絶えず座標を移動していき、金属製箱で捕らえた事にならない。また、時間も同じで、金属製箱の中で外気と同様の時刻で経過していく。
 では、時間は何なのか? ベクトルも持たず、触れる事も、見る事も出来ない。ただ、時計の針でその経過を、人間の都合の良い様に、1秒毎に区切り取っているだけで、実態が知れない。
 解明はまた、次の章でしてみたいと思う。

 直弘は標識を見て、車を左折させた。ここまで、左右を森林で囲まれた、人家の疎らな片側1車線道路を走ってきた。  車を左折させると、左方から差していた日差しが、正面から照らしてきた。丁度、朝日が正面に見えて、5月の初夏の日差しが、直弘に眼を細めさせた。寝覚めで冷え切っていた体が、暖かい。
 300メートル程、ゆっくり車を走らせていると、正面に大きな芝と砂の入り混じった駐車場が見えてきた。位置的には、この駐車場の堤防の向こう側が海の予感がした。サーフィンメーカーのステッカーを貼った車が、疎らな駐車場にちらほら見えて、これから海に入る準備をしている人がいたからだ。

 直弘は車を隅の方に停めて、未だ丘サーファーらしき服装で、車の運転席から降りた。川幅が4メートル程ある小川に沿って、海に出る事にした。
 小川は水が澄んでいて、透明な水の川底が見えた。
ジーパンのポケットに両手を入れて、真っ直ぐに東の朝日の方に向かって歩いて行き、堤防の上に登ると、そこには楽園があった。砂浜としては小さめだが、左側の小川から観て、右側の小高い岩場まで、真白な砂浜の朝日に輝くビーチがあった。
 人は、海に入っているサーファーが、2、3人程しかおらず、南国の浜を連想させるビーチにただ、直弘は見惚れていた。波は、ポイントブレイクで、数ヶ所に立っているが、時々、セットで胸サイズくらいの波が入ってくる。

 直弘は車に戻り、サーフィンの準備を済ませると、逸り弾んでいる心を落ち着かせる様に、顔が真っ白になるまで日焼け止めを塗って海に入った。
 周りには人気が無く、テイクオフのし放題だ。がむしゃらに、サーフィンをしていても、誰にも迷惑が掛からない。
2時間程して、直弘が疲れてボードの上で波待ちをしていると、透明な海水の足元を大きなヒラアジの魚影の群れが泳いでいるのが見えた。直弘は満足して、車に戻って着替え終わってから、姉に携帯電話で連絡を入れた。午前11時頃であった。
 今、大浜という伊豆の浜にいて、表現しきれない程、美しい浜だと言うと、電話口に出た姉は、大学の授業中だからという理由で通話を切った。誰かに伝えたかった。この浜の秀麗さと、興奮を。両親は仕事で家にいないし、弟も大学に行っているはずである。

 昼近くなので、昼飯を食べる為に、この浜に入るT字路の看板のある信号の横にあったコンビニに行った。直弘はサーフィンを始める前までは、所謂、オタク青年だった。少年漫画雑誌と食糧、飲み物を買い物籠に入れてレジに行くと、若い直弘と同世代の女の子の店員が2人いた。
 「これお願いします」 直弘が言うと、2人の店員は顔を見合せてクスクス笑っていた。1人は、清楚系のほっそりとした肌の真っ白な女の子で、もう1人は肌が浅黒の、明らかにスポーツ系の女の子だ。
 直弘が戸惑いながらも動揺を隠していると、肌白の女の子の方が、
「顔が真っ白ですよ。サーフィンでもしてきたんですか?」
と聞いて来た。この辺りでは当たり前の事なのだろう。海から上がったばかりで、鏡も見ずに、髪の毛も乱れている。直弘は笑われて当然だと思った。
 「横浜から、サーフィンに来ています。未だ、始めて2ヶ月です」
直弘は自信無さそうに言った。日焼け止めの顔の肌の下が赤らんでいるのが、自分でも判った。また、2人の女の子が顔を見合せて笑った。
「この子、サーフィン歴、5年ですよ」
色白の女の子が、色黒の女の子を指さした。直弘はまた、自分の顔が火照るのが判った。劣等感からだ。
 直弘はそそくさと会計を済ませると、店を出て行った。

 昼は漫画雑誌を読んで時間を潰して、夕方に第2ラウンドで、海に入る積りだった。18時頃、海に入る準備を終えて砂浜まで行くと、1人だけサーファーが入っていた。直弘は眼が比較的に良い方なので、一発で昼間のコンビニの色黒の女の子だと判った。
 夕映えの橙色の海面で、彼女は軽々とパドリングをして、オフザリップ、カットバックを決めていた。直弘は、自分のボードを下に置き、砂浜に体育座りして、只、彼女の流れる様なライディングを見守っていた。

第五章

 光は特別な存在だ。
 一般的に、光は現在、粒子性と波動性が唱えられているが、本当にそれだけの存在なのか?
例えば、光が空気中、物質中を進む時、その成り立ちを考えてみる。仮に、分子が3つ存在する真空に近い1M3の空気中で光が進む場合を考える。
粒子同士の引力は、近づいて行く時と離れて行く時で、プラスマイナスゼロと考えると、若し粒子と光が衝突しない場合、光速は真空中と全く変わらないと結論付けられる。摩擦も生じないからである。
一方で、密度の高い空気中では、光は粒子との衝突、摩擦等により、光速が著しく低下するのは、常識的に解る。
 物質中でも同じ事が言える。

 又、材料学的に言えば、例えばガラスの中を通過して、光がその反対側に出る時でも、材料は均質では無いので、材料中でも光速がひっきりなしに変わる事になる。
 光子がガラスを通過する時まで等速で近付いて行き、カラス中で光速が著しく落ち、またガラスから光子が出る時に、前の光速まで戻る法則の理屈が説明出来ない。ガラスを出る時に、一気に空気中、又は真空中の光速に加速する原動力が説明出来ないからだ。
 だから、光が粒子なら、ガラスの塊に近づいて行く時にガラスからの引力で少し加速し、ガラスから光子が出る時に、ガラスからの引力で減速するはずである。

 光は本当に、物質中で速度を失うのであろうか?
 2つの仮定が考えられる。1つは、弾性と摩擦による光子の減速である。もう1つは、光子は一切として速度を一定に保つが、物質中では速度は失わずに、粒子との衝突により減速している様に見えるという仮説だ。
 前者は、一般的に唱えられている理論である。しかし、先に記した理由で、物質中から抜け出した時に、再加速する原動力が説明出来ない。
 後者は、真空中でも物質中でも同じ光速を保つとして説明し易い。だから、物質(金属やガラス等)中に入った光が、物質の途中で向きを反転させて、光子の入射角と180度反転して、来た方向に内反射して出て行く事も考えられる。
 現在は、光子自体の正体がまだ不明なので、何とも言えないが。

 光には、恒星からの光、火による光、懐中電灯や蛍光灯による光、LEDによる光、動物が発する光がある。
 これらは、熱を持っていたり、熱を感じない光など、色さえも大別出来る。
仮に、熱を感じる光の強さを『光強度』とすると、光の明るさを示す密度を『光密度』とする。
光強度は、太陽等、燃焼系、反応系の光の出方で顕著に見られる。一方で、光密度は、蛍光灯の光の強さをいくら強くしても、太陽の熱より熱く感じる事が無い。
これが説明出来るのは、赤外線、紫外線等であろうが、では何故、それが蛍光灯には不足していて、光として成り立っているのかだ。
恒星が最も温度が高いのは、青い恒星で、太陽の色の恒星は中間で、白いものは発する温度が低い。
バーナーでも説明出来る。バーナーの赤い炎の部分より、青い部分の炎の所の方が温度が高い。

 光は、本当に直進性があるのだろうか?
 粒子としての性質と、波動としての性質の両方を兼ね備える。これは現在、言われている事だが、例え、本当の真空中、無重力、空間の歪み無しを造り出しても、等速直進運動は存在するのだろうかとの疑問が浮かぶ。

 この考え方で、ガラス等の物質を光が通過する時に、光は入射角と物質中から出る角度は同じでは無い。極端に言えば物質に直角に90度で入射してきた光が、出射角45度で出て行く事など、ざらなはずだ。
 だから、ガラス等の出射面全てをスリットと考える事が出来る。スリット(壁に小さな穴が空いている物)に光を当てると、光の波動性から、反対側の全ての面が薄らと明るくなる(反射によるものでは無い)。
 ガラスの出射面は、全てスリットと考える事が出来るから、出射面全面が明るくなるはずである。

 憧れ。そんな存在は誰にでも存在する。
 直弘は、それが同世代の若い女の子になってしまった。自分は優れていて、運動神経にも自信があった。
若い時分は、誰でも根拠の無い自信を抱えている。ある人は、それが勉強であったり、スポーツであったり、芸術であったり。そんな自信が、大学生になり、社会人になるにつれて、理想と現実のギャップに気付かされ、失望して、世間という型にはめ込まれて行く。

 はっきり言って、たった1日で、直弘は浅黒い同世代の女の子に心底、尊敬の念を抱き、惚れてしまった。
 1晩、彼女が描いていたサーフィンのライディングが目に焼き付いて、離れなかった。
翌日の明け方まで、彼女がどんな顔をしていたか、思い起こそうとしていた。やがて、辺りが薄らと明るくなってきて、漸く、直弘は仮眠を取ろうとして、運転席の座席を倒して眠りについた。

 眠りから覚めたのが、午前10時過ぎだった。前日の疲れが溜まっていたのか、車の運転席でも熟睡が出来た。取り敢えず、「本日もコンビニに行ってみよう」と、直弘は心の中で考えて、昨日と同じ時間帯にコンビニに行く決意をした。
 車の外に出て、2リットルのペットボトルの水を使って、シャンプーで髪の毛を洗い、顔にこびり付いた日焼け止めを洗い流した。車のバックミラーで髪の毛を完璧に整え、自分の顔を改めて見てみた。
 ここ数カ月のサーフィン三昧の生活で顔の贅肉は落ち、精悍な顔付になっている。日焼け止めを毎日、事欠かなかったから、色もそんなに黒く無い。悪い顔をしておらず、寧ろ、まだ良い顔の方に自分でも客観的に思える。

 1時間程時間を潰す為に、前日に買った漫画雑誌を2度読みした。
 昨日、コンビニに行った時刻と、同じ時間になった。海辺の駐車場から300メートル離れたコンビニに車を走らせた。
店の自動ドアを潜ると、昨日の色白の清楚系の女の子がレジにいて、直弘に気が付いて、笑顔で会釈をしてきた。直弘は「ほっ」とした。どうやら、本日も彼女に逢えそうだ。まる1日分の食糧と飲料水を買いこんで色白の女の子が待つレジに向かった。
 「こんにちは。昨日はどうも。俺、大島直弘っていいます」
色白の女の子はレジで商品をバーコードに当てながら、笑顔で、
「私は、白川 沙織です。今日は、格好良いですね」
と言った。後の言葉はお世辞と受け取って、直弘は名前を覚えるのに漢字を聞いて、記憶に何度も叩き込んだ
  『将を射んとすれば、まず馬を射よ』だ。沙織に、自分の事を正直にあれこれ話した。沙織は、屈託ない笑顔で、楽しそうにその話を聞いてくれた。
沙織は静岡県の私立大学に通う女子大生とのことだった。一通り話し込んだ後で、色黒のサーファーの女の子の名前を、沙織に聞いてみた。
「彼女は、山黒 彩華。フリーターです」
直弘は、彩華の漢字も聞いて、何度も頭の中で反芻してみた。
「これから、海に入るんですか?」
直弘は「その通りです」と答え、商品を持って店を出ようとして、自動ドアを潜り店のガラス越しに沙織を見ると、彼女は笑顔で直弘を見ていた。

 直弘は、高いモチベーションで海に入った。何度も、波にテイクオフを試みてみたが、なかなか上手く行かない。5時間くらい海に入っていて、諦めかけて次の波で陸に上がろうと考えていた。日も傾き始めて、波が見えづらくなっていた。そうしたら、この日1番のセットが入ってきた。頭オーバーはあろうかという波だ。
 直弘が我武者羅にパドリングで、波に追い付こうとしていると、急に「フッ」とボードが軽く感じ波の上を走り出した感覚が解った。その瞬間に、直弘はボードの上で跳ね上がり、ボードの上に立ち上がった。
直弘を乗せたボードは、波の頂上から一気にボトムまで真っ直ぐに降りて、そこで直弘はバランスを崩して水中に落ちて、海中の中を何度も体が回転して巻かれたのを感じた。必死で海面に顔を出した直弘の眼に、橙色の夕日が映った。
 この1本のライディングが、直弘には心地よい充実感を与えていた。

第六章

 『 韻 』という言葉がある。
 古くは、恐らく中国を源流とする言葉であろう。漢詩では、詩を綺麗な漢字で、言うなれば整理整頓された形に落とし込み、その1塊の旋律の最後の言葉の『 音 』『 発音 』を合わせるのである。
 しかし、古くはエジプトでも、同じ『 文字 』の繰り返しを避ける為に、わざと同じ発音の違う文字を使用していたという。世界各国で、それは行われているのだ。
 何故なら、言語の発音は有限で、英語ならアルファベット、日本語なら平仮名等、基本文字を組み合わせる事で、『 単語 』が成り立っているからだ。

 数学では『 因数分解 』が必ず行われる。数式を整理したり、崩したりする事をいう。例えば、「2X + 3X = 5X 」「2X + XY = X(Y+2)」と云った形である。
 同じように、言葉も因数分解を出来る。異論も多数寄せられると考えられるが、エジプトと日本は同じ太陽神信仰である。エジプトの偉大なる王『 ツタンカーメン 』は、日本語に訳すと、『 津 タン カー 面(麺)(メン) 』だ。
 解説すると、全て三重県に集約される。タンは松坂牛に由来し、カーは鈴鹿サーキット、面は色々と考えられるが、恐らく腰の無い麺である伊勢うどん辺りであろう。
 これは、太陽神信仰を否定している訳では無く、神々(宇宙そのもの)に架けられた『 韻 』なのだ。

 言葉を逆読みしてみて欲しい。あらゆるものに通じるのだ。人名、地名、物、動物、アニメーションや漫画のキャラクター。怖いくらいに全て因数分解が出来る。何故なら、神々は、予知を行うからだ。恐らく、何兆億年先までも。その通りにならないと、神々は微調整しつつ、予知の通りに修正して、予知を完成させる。

 話を変えよう。光は生命に欠かせないものである。
 最初に地球に発生したという生命(植物も生命に含むとする)は、光合成でその生命を保ち、成長していった。
人類が太陽の光を浴びないとどうなるか? 何世代にも渡ってそれが続くと、奇病を発生させ、衰えて行き、やがて滅びるだろう。
逆説的に言えば、宇宙の光の無い所では、高等生物は存在出来ないのではないだろうか。例えば、宇宙の『 あわ構造 』の銀河の無い部分、『 ボイド 』である。そんな所では、例え生命が存在していたとしても、非常に軟体動物で、脆弱なものであろう。

 地球の歴史を見てきても、太陽が燦々と強い時代の生き物達は、より屈強であった。恐竜時代である。その後、氷河期が訪れると、何故か生命が脆弱化してきた。
 これは、太陽が歳を重ねて、その放出するエナジーが衰えてきている事に起因すると考えられる。要するに、生命には恒星からの光が、密接な生命維持に関係しているのである。
現在に於いても、それが言えうるのではないか? 赤道を中心として、その近辺から遠ざかる程、体質が衰えてしまう。動物でもそうだ。暑い地方に住む動物程、強靭で強い。
人間に於いてもそれが言える。しかし、人類は、暖房や設備によってそれを克服したが。

 人類だけに限らず、生命維持には熱が必要である。哺乳類(主に恒温動物)である、熊を例にとってみよう。必ずと言っていいほど、冬場には冬眠に入る。
 その冬場の前に、食糧をたらふく食べ込み、脂肪として体に栄養素を蓄積し、それを燃焼させる事で体温を調節させる。
哺乳類だけでは無い。爬虫類(主に変温動物)も、魚も、昆虫の一部でさえそうであろう。気温が著しく低くなると、体温が下がり動きが鈍くなり、反射神経も低下する。 菌類はどうだろう。人間の体を病ませる風邪はウイルスによるものであり、タンパク質などの腐食を助けるのは菌類である。
風邪は、冬に気温が低下すると流行する。しかし、ウイルスも生物の一種で、極端に温度が低下すると、活動が鈍るはずである。
菌類にしてもそうだと言える。冷蔵庫で、一時的にその活動を抑え込み、和らげる事はできるが、余りにも摂氏マイナス何十度、百何十度の低温では、その働きが鈍るはずである。

 その逆も言える。
 余りにも高温域、摂氏何百度、何千度の世界では、一般的生命は生きる事が出来ない。体自体が、燃焼していまい、朽ち果ててしまうからだ。
著者である私は、独自の見解を持っていて、無限の宇宙の中では、それに耐え得る生命(光が何か解明出来ていない現在では、光は除く)も、存在していると確信しているが。
少なくとも、地球上では水の沸点(一定条件下で100℃)を僅かに超えて生きられる生命が存在していると、確認されている様だ。
 太陽は、水素(陽子数1で中性子数は不明とする)の核融合反応でヘリウム(陽子数2で中性子数は不明とする)になり、燃焼して熱を発生している。
これとは逆に、核分裂反応でも、熱を発生する。放射性元素がそれである。
 この状況下でも、生きられる生命。その生命が存在し得るかは、それこそ無限の宇宙の中の事なので、否定する理由も根拠も無い。
何故なら、現在、地球上で見付かっている元素でさえ、地球上だけのものなので、無限の宇宙にはもっと重元素が存在しているはずであるし、可能性は無限だからだ(ビックバンの元となったものも、大きな1塊の元素と考えられていた時代があった)。

 1週間が経過した。
 直弘は、睡眠を取る場所を見付けていた。大浜の南側の道路脇に車3台程停められる少しの窪みがあって、そこなら誰にも邪魔されずに、車を停めてゆっくりと眠れた。
コンビニには、決まって昼間に1日分の食糧を買出しに行った。沙織とはよく顔を合わせたが、彩華は3回しか顔を合わせていない。また、大浜で彩華がサーフィンをしている姿を見たのも1度きりだった。どうやら、本当に彩華は自由人らしかった。
毎日、コンビニで食事を摂るのも飽きていたので、直弘は大浜から少し車で北上して、下田の町で食事兼、温泉に入る事にした。
食事を終えて、日帰り温泉で体を綺麗にしてから、下田の街を一人で散策していた。丁度、5月中頃の夕暮れで涼しい海からの微風が、上下半袖でビーチサンダル姿の直弘には心地良く感じた。
下田の街中を流れる川沿いから、国道に出て伊豆急下田駅まで歩いた。駅の周りには、何か目新しいものがあると思って。
駅の周りに直弘が着くと、夕暮れにも関わらず、駅の照明やら、ターミナル駅の周りのロータリー交差点の周りの店の電灯で、比較的明るかった。

 ポケットに両手を入れて歩いていると、前方から男女10人くらいの集団が歩いてきた。直弘が苦手なタイプの人種だ。その集団が直弘の横を通り過ぎようとしてそのまま素通りしようとしていると、
「直弘君」
と、誰かに呼ばれた。
 直弘が集団の中に目を凝らして見てみると、彩華がいた。彩華が直弘に声を掛けてきた次の瞬間、男女の集団から爆笑が起こった。1人の男が直弘に、「君が直弘君?」と、小馬鹿にする様に声を掛けてきた。直弘は、一瞬で腹がたった。相手は茶髪にしているが、細身である。
 どうやら、この辺のサーファーのローカル連中らしかった。直弘は勉学青年だったが、喧嘩には自信があった。しかし、相手は10人で、彩華の友達らしかったので、気持ちを静めた。
「何か、国立大学目指してるんだって」
彩華が険悪な雰囲気を和らげようと、仲裁に入った。何人かが失笑していた。直弘は、「入れれば良いなと考えているんですよ」と、少し落ち着いて切り返した。彩華は必死に、場を和ませようとあれこれ仲間に説明している。
 直弘は完全に気分を害して、その場を立ち去ろうとした。その瞬間、彩華が直弘の耳元に口を近付けて、
「沙織が、直弘君に気があるみたいだよ」
と言った。その言葉がお世辞か、からかっているのかは直弘には判らなかった。この状況では。
「失礼します」
直弘が集団から通り過ぎて行くと、後方から、
「丘サーファー」
と、男が叫ぶのが聞こえた。

 次の日から、直弘のサーフィンに対する気持ちが変わった。サーフィンでも1流になってやろうと、必死に波乗りに励んだ。
 一方で、コンビニには毎日、昼に顔を出した。逃げたと思われたく無かったからだ。何故か、沙織は大学生なのに、1週間の内に5日は会えた。彩華は、偶に顔を合わせる程度だったが、直弘にかなり気を使っている様に感じた。3週間が過ぎて、直弘は何時の間にか、彩華より沙織の方に心を許す様に話し掛けていた。

第七章

 昔、有名な学者がこう言った。『 我思う故に我有り 』
 この一節は、確かに正しい。地球上の人類は、同じ重なりあった時間の中で生きていて、自分が死ねば、自分にとっての世界は無くなる。
しかし、別の同じ時間を生きている人達にとっては、ひと1人が亡くなっただけで、世界は何も変わりはしない。自分の身内が悲しむだけであり、やがて時代が過ぎて行くと、その自分の存在さえ忘れ去られる。

 一方で、仮に人類全てが一瞬で死滅してしまったらどうだろう。人類にとっての『 宇宙 』が無くなるのではないか。
 ここで、私は1つ言葉を残したい。『 人類あってこそ、宇宙は存在する 』と。悠久の無限に時間の繋がる宇宙の中にあって、人類の存在はちっぽけなものだ。
 人類がもし地球上で滅んだら、次の生命が進化を遂げ(恐らく神から知性を頂く)、知的生命として地球に繁栄する。そして、人類の化石を発見して、この太古の生命は知性がどうだの、運動能力がどうだの議論を重ねて論文を書く。

 人類から見た宇宙と、宇宙から見た人類では次元が異なる。人類から見た宇宙は、広大で限りが見えない。もし、仮に人類の宇宙開発が進み、他惑星に住む事が出来たならば、確かに人類は存続し、人類にとっての宇宙は無くならない。
 他方で、宇宙から見た人類(地球)は、どうでもよいのではないだろうか? 宇宙は、決して無くなる事も、死ぬ事も無い神だ。
 神は、自分の意にそぐわない事をする者を、優遇する訳が無い。何故なら、神は善人には時に優しい。逆に、悪人には時に厳しい。これは、人間が常に神頼みで、『 神様、どうか願いを叶えて下さい 』と、他力本願だからだ。

 神こそが、宇宙に溶け込み、『 我思う故に我有り 』なのではなかろうか。先に述べた、神が宇宙を造り賜うて、宇宙に溶け込んだ言い伝えはデマでは無いと考える。
 太古の人達はより純粋で、現在の人類よりもっと真剣に宇宙の成り立ちと神の存在を信じていたに違いない。
 科学の発達により、人類は神への信仰を忘れ、宇宙を科学によって理解しようとして、如何に他の惑星に移り住み、自分達の物にするのかを考えている様に思える。
 もし、その惑星に地球外生命体がいたらどうだろう。当然、人類が住める環境の惑星ならば、地球外生命体はいるに違いない。
 そして、300万年の歴史しか持たない人類より高度な文明を持っていて、地球人類は迫害を受ける事になるだろう。恐らく、地球外生命体は既に存在していて、宇宙の神の元、
秩序が保たれているから、地球は平和なのではないだろうか。
 寧ろ、地球上の人類とやらは、何て野蛮で時代遅れの生命なのだろうかと、思われているに違い無い。

 映画で観る、異星人による地球侵略に、地球はずっと怯えてきた。映画で、その警笛が鳴らされてからは。映画では、異星人は常にグロテスクで、いびつで、獰猛な存在になっている。
 それは、それでいい。そんな異星人も存在するだろうから。だが、人類より優れた異星人がいて、もし地球に辿り着く事が出来る科学力を持っていたなら、骨格は丈夫で、頭脳明晰で、知的で、友好的なのではないだろうか?
 獰猛な異星人(人類は宇宙人と呼ぶ)なら、人類が地球上で栄えていると知った時点で、地球を破壊せずに手に入れる方法を考える。例えば、異星人には毒では無いが、地球人には猛毒の化学兵器を使ってくるだとか。
 人類は科学が発達してから、異星人の侵略に怯えている。何故なら、地球上の多国間で、侵略の歴史を繰り返してきた人類だからだ。私の住む日本国は、島国であったから、割と平穏に国造りをしてきたが、やはり隣国からの侵略に常に対処法を模索してきた。

 宇宙が何の目的も無く存在しているのだろうか? 『 我思う故に我有り 』
 宇宙は、残念だけれども、神の物で、神の意志を反映した歴史を歩もうとしているのではないか。人類の意志に反して。
 地球人類の考え方は、まず『 自分 』だ。人間は産まれてから、大人になるまで常に自分中心に世界が回っていると勘違いして育っていく。その勘違いが、自分以外の人には有難迷惑で、衝突を生じる。
 しかし、何時か人は死ぬし、死んだらその人にとっての宇宙も地球も存在しない。生命とは、取り換えの利かないものだ。

 地球の歴史は太陽系の歴史でもある。何かの本で読んだが、地球は現在46億歳である。太陽の寿命はあと50億年あると言われているが、その前に膨張した太陽に地球は飲み込まれる事になる。
 では、地球の寿命は後、何年なのだと考えると、太陽より短いのは先に述べた通りだ。太陽に飲み込まれる前に、何らかのトラブルで惑星ごと逸してしまうかもしれない。
 では、どうする? 地球を脱出して、新しい惑星に移り住むか? その方法は? どんな技術と魔法を使って脱出するのか? 新しい人類の住める惑星まで、何万光年(1光年は光が真空中を1年かけて進む距離)あるから、光の速さを出す事が可能な宇宙船を造って、何万年かけて旅をするのか。
 今現在、生きている私達はいい。子孫を残していけば、何とかなるだろうと考えていれば良いから。だが、事態はそう上手く行かない。計画は、常に遅れを生じるからだ。どうにもならなくなった時に、又、人間独特の他力本願の『 神様、どうかお助け下さい 』では遅い気がする。

 3週間の伊豆での生活で親に借りた30万円の内、20万円を使ってしまった。後、この浜に居られるのも、節約して2週間が限度だと、直弘は計算した。
 当初の3ヶ月間、伊豆に滞在する計画が狂った。母に何と言い訳をしようかと、考えていた。
 夏が近いせいか、周りに山が多いせいか、とにかく、夜寝る時に蚊が車に入ってきて、窓を開けて寝られないので、エンジンを点けたまま寝るので、ガソリン代がかさんだ。
 伊豆の東海岸でサーフィンばかりしていたので、観光も出来ていない。毎日のサーフィンで疲れも溜まっていたので、本日は体を休める為に伊豆観光をする事にした。


 夜明けがきて、朝焼けの大浜の砂浜を散歩していると、人影が無い中に1人、向こうから人が歩いてくるのが見えた、輪郭からして、若い女の子だ。
 6月初旬の夜明けは早い。丁度、浜から見て海の地平線から朝日が昇り、浜辺や周りの山々全体を照らし、海を見るのは眩しい。直弘が女の子から眼を逸らして、海を見ていると、今日は凪なのか波が膝くらいしか無い。今日はサーフィンを休むのに丁度良かった。
 女の子の気配が近付いて来る。砂を踏む音が近付いて来るのだ。「何だろう?」と思って直弘は視線を海から逸らさずにいると、自分の名前を何度か呼ばれた気がした。
 直弘が近付いて来た女の子を見ると、沙織だった。未だ、10メートルは離れている距離である。
彼女は声を張り上げて、
「直弘君のサーフィンを見にきたの」
と、どうやら言っている様だ。彼女が直弘に近付いて来るまで待って、直弘は、
「今日はサーフィンしない積りです。これから大学ですか?」
と言った。沙織は、直弘の隣まで来て、スカートを手で膝の後ろ側から束ねて、地平線の向きを見ながら砂浜に座り込んだ。
 「サーフィンをしてみてよ」と言う沙織に、直弘は「今日は波が無いので」と、返答を返した。そして、本日は伊豆観光でもする旨を伝えると、沙織は「案内役をしてあげる」と答えた。
沙織の家は、大浜から歩いて直ぐに近くにあるとの事で、「帰って準備をしてくる」と言ったので、直弘と沙織は午前9時にこの浜で待ち合わせる約束をして別れた。
直弘は車に戻ると、先ず車の汚れた車内を片付けた。そして、洗面を済ませると、持ってきた服の中で一番、フォーマルな服を選んで着た。夏なので、それでもラフな格好であるが、上はYシャツ、下は青いジーパン、靴も履いた。

 午前9時になり、日が昇り少し暑くなった砂浜に行くと、沙織と彩華がいた。沙織は女子大生だけあって、お嬢様らしい落ち着いた格好をして、ブランド物らしいバッグを持っている。一方で、彩華は、カラフルなハワイアンロコサーファーみたいな格好をして、荷物を持っていなかった。どちらにしても、お洒落な格好だった。
 直弘が車に案内しようとすると、沙織が車を出すと言った。既に、車は駐車場に停めているとの事だった。3人は、少し距離を置きながら、バラバラに車に向かった。
 「どこに行こうか?」と云う事になって、直弘が伊豆の根元から下田まではよく知っている旨を伝えると、この先の道路を南に下ると『弓ヶ浜』という内湾の砂浜があって、何も無い浜だけれども日帰り温泉があり、美味し海の幸が食べられるというので、のんびり出来るとの理由で、そこに決めた。
 車は小型の左側運転席の外国車だった。沙織が運転して、右の助手席に直弘が座り、後部座席に彩華が座った。車では会話は弾んだ。沙織とは自然と話せたが、彩華に対しては表面上敬意をはらって話していたが、どこか気まずいぎこちない会話が続いた。

 弓ヶ浜に着くと、成程、伊豆東海岸にしては珍しい南向きの砂浜で、弓をしならせた様な三日月型の凹みを南にした様な大浜とは比べ物にならない程広い浜だった。
 車を停めてまず、3人で浜を歩いた。浜の東側、詰まり海が本来ある位置に森があり小さな岬になっていて、微かに小波が浜に入ってきていた。西側は複雑な入り組んだ地形で、堤防になっている。薄茶色の海草が所々に打ちあげられた砂浜を観ながら、砂浜沿いのアスファルトの道路を3人で歩いた。
 「食事処」と書いてある食堂に入り早い昼食を摂る事にした。直弘が鰺のたたき定食にすると、沙織は直弘と同じものにしたが、彩華はカサゴの唐揚定食にした。
 食事をしていると、彩華の携帯に電話が入った。彩華が席を外して携帯に出て、何やら口論をしている様だった。彩華はその後、席に戻り平静を装う様にわざとらしく明るく振る舞っていた。
 食事が終わり、3人で薄茶色の砂浜の弓ヶ浜を歩いていると、遠くで「おいコラ」という叫び声が聞こえて来た。先日会った茶髪の男だった。男は近付いてきて、
「何、彩華と一緒にいんだよ、コラ!」
と、険しい顔つきで威嚇する様に叫んだ。彩華は、私が付いて来たのと云う様な内容を言いながら茶髪の男を制した。それでも男は突き進んできて、直弘の前まで来て上から直弘を見下した。
直弘が正対して男の眼を見返したら、男はいきなり直弘の顔を殴ってきた。直弘の頭はその勢いで少し揺れたが、全然威力が無い。直弘は平気な顔で何も言わずに男に正対し直した。男が再度、数発、直弘の顔を殴った所で、直弘の堪忍袋を尾が切れた。
茶髪の男の首根っこを右腕で掴み、首投げの様に砂浜に叩きつけてそのまま抑え込んだ。
男は必死にそれを外そうと試みて暴れたが、直弘は渾身の力を入れて離さなかった。男の首元にかいた汗が、直弘の右腕を濡らした。
沙織は戸惑う様にそれを見ていたが、彩華は「やめて、二人とも」と言って、男2人を引き離そうとした。
やがて、茶髪の男は疲れたのか抵抗を止めて、「離してくれ」と、直弘に言ってきた。直弘はそれを聞き静かに力を弛めた。直弘と男は立ち上がると、茶髪の男は疲れた様子で3人に背を向けて砂浜を歩いて行った。3人の周りの砂はごちゃごちゃに隆起したり、凹んでいたりした。

 3人は楽しい気分が害されたが、彩華が直弘に「ごめんなさい」と言って謝った。砂で汚れた体を洗い流す為に3人は日帰り温泉に入って帰る事にした。帰りの車の中、沙織は直弘を見直した様に楽しそうに話していたが、彩華は終始、無言だった。

第八章
告白

 宇宙の範囲とはどのくらいなのだろうか?
 人類が観測できている範囲では、また予測できている範囲では、我々の住む宇宙は約140億年前に、ビックバンから始まったとある。
しかし、それでは合点がいかない。もし宇宙が無から始まったのだとしたら、そのもとの物質量はどこに待機していたのだろうか。空間、時間はどのようにして産まれたのであろうか。
もし、宇宙に果てがあり、ゲームの様に、「この先は進めません」となったら、宇宙は箱の中にある事になる。これが『 有限宇宙 』説だ。人類が唱えているのは、現在、宇宙は膨張しているという説である。
では、何が膨張しているのか? 物質なのか? 空間なのか? 時間なのか?

 有限宇宙を著者は『 箱宇宙 』と呼ぶ事にする。要するに、有限の箱の中で宇宙は膨張しているという説だ。これは考え方を変えると、実験室の中で、宇宙は膨張している事になる。
 解説すると、神が箱(ボックス)を用意して、そこで約140億年前にビックバンを起こし、経過観察をしている。若し、仮に140億年前にビックバンが起こっていたとしたらだ。最近の研究発表を見ると、矛盾点が幾つか出てきている。
 宇宙の誕生、所謂、ビックバンの後、10億年後まで、宇宙はガスで曇っていたという説に反するものである。


 仮に、宇宙が無限であるとしよう。そうすると合点がいく。ビックバンは宇宙の局所的に起こっているのである。
 例えば、地球上で、爆弾が爆発するみたいに。そうすると、しばらくして、爆弾の破裂の煙で曇っていた空気が晴れて、飛散した物質の拡散も止む。
それが大規模で起こったものがビックバンであると言える。
人類が観測できている宇宙は未だほんの局所的なものである。宇宙の『 あわ構造 』が最上級とは言えない。

 宇宙を考える時、科学だけで論じるには無理がある。生命が存在するからだ。
 だから、あらゆる分野、学問から宇宙を論じなければならない。それが『 無限∞宇宙 』だ。科学だけで宇宙を論じると、千年前に人類が犯した過ちと同じ事が起こる。
数学、物理学、化学、生物学、哲学、そして何より大切なのが神学である。

 木は何故生きているのか。生命だからだ。微生物は、心臓も脳も持たずに、何故生きているのか。生命だからだ。それぞれ、生きている形は違えども、何故が生命を宿している。
 人間が死ぬと、幾つ質量が減ると馬鹿な実験をした人がいると聞く。魂の質量を測定しようとして。
そんなもの、気体だとか、液体だとかの損失に因るに決まっている。若し、密封した容器に動物の生きた物を入れて同じ実験をしても、1000分の1グラム測れる重量計でも、正確に質量を測る事が出来ないと考えられる。
気体を測量するのと、物体を測量するのでは狂いが生じるはずである。どんな正確な重量計に於いても。

 木が生きているのであるから、地球も生きているかも知れない。そんな疑問を持った事がないだろうか?
 地球が、内部のマントルで熱を蓄えていて、時々、地表に溶岩を噴出する。地中深くに、井戸水として、地球の内部浅くを張り巡らしている。まるで、人体の血管の様に。これはあくまでも哲学なので、地球が生きているかどうかは、読者の意見が分かれる所である。


 同時に、銀河も動いている。宇宙も動いている。
 前に、著者の書物の中で書いた事だが、枯れて死んだ木の落ち葉が、風で転がっているのは生きているのかと云う議論をした事がある。
緑色のまだ瑞々しい木に付いている緑色の木の葉が、やがて、冬になり大気が乾燥して水分が行き渡らなくなり、枯れて散って行く。
そして、散った落ち葉が、風に吹かれて転がっているのを生きているのかという議論である。
著者である私の見解では、この落ち葉は死んでいるのだが、地球規模で見た時には未だ生きているのである。落ち葉がやがて土になり、新たな生命の栄養源となり再生していくからだ。

 宇宙∞にも同じ事が言える。100億年くらいの命を持っている恒星も、やがて生命を失い死ぬ。死んだ欠片が、白色矮星なり、中性子星なり、ブラックホールになると人類では言われている。
 しかし、もっと違う壮絶な死を遂げる恒星もあるはずである。違った形で。
だが、宇宙∞は、何故が再生能力を持っているし、自浄能力も持っている。宇宙∞自体が生命であるからだと著者は考えている。神という言葉を使うと、抵抗を持つ人もいるかもしれないが、正しく唯一無比の絶対的な存在である事に違いは無い。
 何しろ、宇宙に、殴り掛かろうが、爆弾を投下しようが、何をしようが、宇宙は無敵なのであるから。
 恒星と惑星が数千億個寄り集まって、一つの渦を巻いているものを銀河という。この銀河でさえも、やがて無くなる時がある。しかし、無くなっても、その物質量は何所かに保存されていて、又、違った銀河として再生する。
 銀河同士が、衝突をする事もある。宇宙には、ガス星雲の様な、魅惑的な星雲も存在している。正に、宝箱の宝庫である。
 但し、それは宇宙∞の持ち物であって、決して人類の持ち物では無いのである。

 暦の月が、5月末から6月初旬に入った。日の出の時刻が早くなり、日の入りが遅くなり、日照時間が長くなった。
 夕方。夕暮れ時が、空が黄橙色に染まり、海風が柔らかい暖かさで全身を撫でる時が砂浜の絶好の散歩コースであった。
日が暮れると、周りに町が無い大浜は、満天の夜空が星々の輝きで煌く。それを砂浜に座り込んで顔を上げ見上げると、誰も見に来ないたった一人のプラネタリウムが、眼の最高の贅沢なのだ。今は、夏の星座が夜空に輝いていて、1等星の傍にある小さな星が瞬いている。

 大浜は、厳密には、小川を挟んで、北側にも砂浜があり、南側にも砂浜がある。メインの砂浜は南側の砂浜で、ここが夏には海水浴場の客で賑わう。川を挟んで北側のビーチは、海水浴客が比較的疎らで、北端には岩礁がある。
 反対に、南側は大きな縦長の木や草の生えている岩礁があり、その更に南には、岩礁の小さなビーチが幾つか存在している。
その更に南に歩いて10数分行くと、大きな田牛海水浴場があるが、こちらも多少、岩礁が混じる事から、海水浴客からは敬遠されがちで人気が少ないが、南端に防波堤がある事から魚釣り客が偶に訪れている。
 正式名称『 吉佐美大浜 』は、奥まった所にある砂浜なので、秘密の海岸(シークレットビーチ)である。伊豆通の人でなければ知らないビーチで、海の家も出店しない。
 だが、知る人ぞ知るものなので、夏になると、外国人の姿でさえよく見掛ける。

 直弘は、ここに来て、規則正しい生活になりつつあった。
 朝、日の出と共に起床して、まず砂浜を散歩する。二十歳の直弘にとっては、そんな事が毎日の発見を見出し、これから来る夏への期待感を抱かせた。
夜は、夕暮れ前の凪の時間帯や、暴風が荒れ狂う時間帯も、散歩を欠かさず、晴れの日の夜には、星空を眺めてから睡眠についた。
 直弘が大浜に来てから、2度、台風が日本列島を通過した。大浜は、大波の時には流れが渦を巻き、サーファーでさえ敬遠するくらいの危険な場所だ。その大波に挑む、サーファーも数人見掛けたが、やはり海外サーファーのサーフィンDVDでみた映像からは見劣りした。
直弘が夜、寝る時には、窓を開けて寝る様にした。コンビニでガムテープを買い、いらないTシャツをガラス窓の開いている所に貼り付けて寝ると、息苦しく無く、快適に眠る事が出来た。

 6月初旬の土曜日、昼の12時頃に、直弘がコンビニに行くと、店員は彩華だけしかいなかった。
 彩華は直弘を見ると、笑って手を振って迎えた。商品をレジに直弘が持って行くと、彩華がレジで製品をレジ袋に入れた後で、
「今日、夕方16時に、一緒に大浜で海に入ろうよ」
と言った。直弘は一瞬躊躇った。又、ローカル連中と喧嘩になるのではないだろうかと。しかし、せっかくの申し出を断る理由も無い。それに、彩華のライディングも観たい。
 直弘は了解する旨を彩華に伝えて、店を出た。

 16時頃、万全の準備をして、まだ明るい砂浜で彩華を待っていると、彩華がピンク色のサーフィンメーカーのステッカーを沢山貼ったボードを持ってやって来た。波は、腰くらいのサイズである。
 二人は、準備体操をして、同時にパドルアウトした。海には2人の他に、3人しか入っていない。
 彩華が華麗なライディングを決めている所、直弘は堅実にテイクオフをして、ボードの上に何度も立っていた。「楽しいね」と、彩華が時々、直弘に近付いてきて笑顔で話し掛けてきた。
2時間くらいしてから2人は、浜辺に上がり、ボードを砂浜に置いた。
彩華は直弘に、こうした方が良いよと、アドバイスを贈っていた。
そうして、「直弘君、座って」と、彩華が言ったので、直弘は海を見詰められる方向で砂浜に腰かけた。彩華が隣に座った。「気持ちいいね」みたいな他愛の無い会話が少し続いた。
 そして、一瞬、沈黙があった次の瞬間、
「私、直弘君の事が好きなんだけど、付き合ってくれませんか?」と彩華が囁いた。彩華は体育座りをしていて、俯いている。
 直弘は戸惑った。直弘は一度、好きになった女の子は、決して嫌いにならない。心の中で燻ぶっていた彩華への尊敬と愛情の念が、再びこみ上げて来た。彩華は未だ、二十歳そこそこの女の子だ。格好や振る舞いとは裏腹に、純なのだ。

 そこで、沙織の事が頭に浮かんだ。駅でのあの一件以来、彩華は恋愛対象から外れていたので、沙織に好意が移っていた。
 直弘は、1分間くらい考えてみて、
 「明日、返事をしていい?」
と、彩華に言った。彩華は、断られると思っていたのか、非常に喜んだ笑顔を見せて、砂浜から立ち上がり、ボードを抱えて手を振りながら走って自分の車の方に去っていった。
直弘は初心に帰って、彩華への好意が芽生え、彩華からの自分への好意が嬉しかった。
直弘は砂浜に腰掛け、考え続けた。夕日が直弘の真後ろから直弘を照らし、直弘の目の前の砂浜に直弘の影を長く落としていた。

第九章
恋慕

 『 自己肯定 』『 自己否定 』という言葉がある。
 英語で言うと、『 イエス 』『 ノー 』である。これが、ビジネスマンには重要になってきて、仕事依頼が可能なのか、不可能なのかの指標になり、商談と契約が成立する。
 よく言われる事だが、日本人にはそれが出来ない。『 イエス 』『 ノー 』の中間があるのだ。それは、担当者に権限が与えておられずに、本社、又は役員に問い合わせてみなくては、契約の了承が得られないからだ。
 何故なら、海外のビジネスマンは、自分から積極的に意見を上に報告する、『 ボトムアップ 』なのに対し、日本のビジネスマンは、上からの命令を忠実に実行する『 トップダウン 』型だからだ。

 では、『 自己肯定 』と『 自己否定 』の間には何があるのか? 『 曖昧 』だ。これが外国人を困らせるとよく聞く。
 しかし、『 曖昧 』なのは、日本人にとっても、世界中の人にとっても、非常に都合が良いはずだ。問題を先延ばしにする手段になるからだ。 『 自己肯定 』ばかり繰り返して来た人は、逆境に弱く、物事に臨機応変に対応出来ない。
『 自己否定 』ばかり繰り返して来た人は、一時期気弱になり、死にたくもなる事がある。しかし、それを乗り越え『 自己肯定 』できたら、一回り成長して精神力が強くなる。
だから、絶えず、『 自己肯定 』と『 自己否定 』を繰り返していれば、バランスの良い人格が形成される。
 自分が正しいと信じていた時には「間違っていました」と『 自己否定 』する。自分が間違っていると思っていた事が合っていたら、周りから褒められ『 自己肯定 』する。
 そうすると、その内に、脳の働きが活性化し、正しい物の見方が出来る様になる。

 日本人は、『 曖昧 』な人付き合いでいるので、直ぐに海外程、意見はぶつからないし、喧嘩も起きない。これはあくまでも一般的日本人の事を述べているだけであって、全ての日本人がこの型に当てはまる訳では無い。
 喧嘩が起こるのは意見の対立が高い確率を占めていると考えられる。これは、対等な立場の人間同士の事であろう。
一方で、立場が上の人から下の人への意見の対立は、時に『 虐め 』に発展する。子供社会では、まだ人格形成が未成熟だから、それを上手く『 曖昧 』さによってはぐらかす事が出来ない。
それにより、自殺等が頻繁に起こっている。
だから、時に自分の判断だけでは、人間は誤りを犯す。子供なら、「ちょっと親に聞いてみてから考えるね」で、曖昧な返事をしておいて、より思慮深い人に意見を頂く。
一方で、成人した人の自殺について語ると、様相が異なる。自分の能力に限界を感じて、生きる気力を失うのだ。こんな時は、『 自己肯定 』である。生きていれば、楽しい事は幾らでもあるし、貧困も結婚を機に改善されるかもしれないし、才能も努力次第では開花するかも知れない。

 世の中、優秀な人材は沢山いる。優秀というのは、何を持って優秀というと、人それぞれである。脳の働きが良い人。人付き合いが上手い人。体力に自信のある人。手に職がある人。
 しかし、人間社会では、それらの才能をいくら持っていても評価されない人達がいる。何故なら、人間は好みがあり、贔屓が存在するからだ。
完璧な美男子が1人いたとしよう。程々の好青年が9人いたとしよう。女子がそれらの中から、彼氏を選ぶ基準は、好みによる。皆が皆、完璧な美男子を選ぶとは限らないのである。
 例えば、過去に好きだった人に似ているだとか、性格が好きだとか、体形が好きだとか。様々な要因が複雑に絡まっている。
 上司が部下を選ぶ事は出来ないが、与えられた部下の長所を最大限に引き出すのが、上司の役目であって、そうして初めて自分の仕事の効率も上がるのである。

 しかし、人間にはえこ贔屓がある。
 日本人で言えば、自分と同じ罪を重ねた同犯者と仲良くなる。それが、類友と呼ばれる類と思われる。
例えば、男性社会と男女間の関係に言及しよう。男性社会は、いわば競争社会である。男女間の関係は性の関係を抜きにしては語れない。  男性社会である会社を例にとって考えてみよう。日本の企業の古くからの企業活動に『 接待 』というものがある。これは、お客様を、女性のいる店に連れて行って、良い気分にさせて仕事を貰うという方法である。これが賄賂に当たり、合法なのか違法なのかは、議論を避けたいと思う。
 又、男女間の関係では、怖いのは口裏合わせである。付き合っていた男女が、仲が悪くなり、別れる。別れても友達でいて、連絡を取り合っていると、次にどちらかと付き合う人は困ってしまう。『 モトカノ モトカレ 』という者に、現在付き合っている人が会わされて、「友達です」と紹介されたら難儀だ。現在、付き合っている人に失礼であり、侮辱をしている。

 人間社会は共犯に成る程、地位が上がる。
 例えば、男性社会でいうと、綺麗な女性のいる店に、家族のいる部下が上司を誘い、又は、上司が部下を誘い楽しむケースである。著者は経験した事がないが。この場合、厳格で真面目な人格を形成した人は、きっぱりと断るはずである。
 仮に、部下から、又は上司からその様な店に行く事を誘われた場合、断れないのも日本の『 曖昧 』さの1つである。もし、上司の誘いを断ったら、上司の心証を害する事になるからである。
要するに、流され易いのだ、日本人は。
 そうして、お互いに汚れて共犯になると、その輪を広げようとする。「ミイラとりがミイラになる」「ゾンビにゾンビにされる」である。
 そうして、人の心が汚れて行き、複雑に絡み合った人間社会が形成されている。

 だから、素直が一番である。女性なら、2度目の彼氏が出来たら、しばらく付き合ってみてから、自分の全てを受け入れてくれそうな人なら、自分の過去を話すべきである。
 そうしないと、もしその2人が結婚した時に、真の幸せは訪れ無くて、何かしらぎこちない腹の探り合いの夫婦生活が続くはずだ。そんな、過去も受け入れてくれない男性なら、器量が低く、望みが無い。男性側からしても同じである。
 女性は、もっと自分を大事にするべきである。女性は、より良い男性、つまり思慮深く、優しく、強く、勤勉で、真面目な、奥手な価値のある中身の薄っぺらく無い男性に、自分の人生を託す事が望ましい。慎重に選んで、自分を高く売りつけるくらいの気持ちでいて欲しい。そうしないと、詰まらない人生を歩む事になる。何故なら、一般的な女性は、著者も男性だから解るが、男性の本性を知らなさ過ぎるのだ。

 これは、宇宙∞的観点を交えて語ったもので、人間的観点から見たらまた、違った意見も多々あると考えられる。だが、1度、道を踏み外してしまったら、本当に大事な人を失いかねない事を、読者に理解して欲しい。

 初夏の夜空が綺麗である。
 本来なら、真っ暗で恐ろしい人気の無い、真夜中0時の一人の海辺の砂浜である。未だ夏は始まったばかりで、秋でも無いのに夜風が涼しく、小波の波音が聞こえてくるだけである。
星座の名前はよく解らないが、昔のアニメで知り得た北斗七星だけは分かった。昔、箱根の山頂で、冬に、子供の頃に家族で星空を見上げた時には、こことは違った澄んだ冷たい空気の中で、満天の宙の中にある星の輝きに幼心で感動した覚えがある。
 心地いい。彩華は悪い女の子では無かった。直弘は、明日、どういった返事をするか、思案していた。取り敢えず、彩華は友達を超えた女の子だと思っている。でも、詩織の気持ちを聞いてからでないと、動けない。
 詩織がもし、直弘に気があるなら、彼女の気持ちを踏みにじれないからだ。詩織はどう考えてもお嬢様で、簡単に付き合うといった事にはなれない様な気がする。言わば、高根の花で、敷居が高いのだ。簡単にはフレ無いし、簡単には付き合えない。そんな存在だ。
 一方で、彩華の過去は知らないが、少なくとも、可愛くて直弘に好意を持っている事が確認出来た。同じサーフィンという趣味を持っている。
 沙織は御淑やかで、彩華は繊細だ。当然、2人と同時に付き合う積りは無いし、どちらか一方を選ばなければならない。逆に、2人に、直弘が本当の意味で選んで貰えるかだ。

 2人の電話番号さえ知らないのに、突然の彩華の告白だった。2人が、直弘の家庭の事さえ知らないはずであるのに、直弘が素直に2人に話した自分の身の上を信じてくれている。
 彩華の告白を受け入れれば、彩華とは付き合えるかもしれないが、沙織が泣くだろう。そして、二度と逢う事も無くなるだろう。彩華の告白を拒否しても、2人とも縁が切れる事が解っている。
 直弘の考えは決まっていた。勿論、「まず、友達として付き合いたい」と、言う積りだ。その後で、色々と説明しないといけない事がある。考えが纏まってから、直弘は砂浜に寝転がり、蒼い宙を見上げながら眼を閉じた。
 直弘はいつの間にか眠りについていた。

 日の出で辺りが明るくなっていた。
 直弘を呼ぶ声がしたので眼を覚ますと、沙織がいた。
「直弘君のサーフィンを観にきたんだけど、昨日は砂浜で寝た?」
何時も通の清楚な服装で、沙織が立って直弘を見下ろしている。直弘が肘を砂浜について、半身を起き上がらせると、服が砂まみれだった。どうやら、車に戻って眠りにつく積りが、ここで寝てしまった。
 寝惚けた態度で直弘がいると、
「これから海に入るんでしょ?」
と、にっこりとして沙織が言った。丁度良かったと直弘は、未だ回らない頭で考えた。
 直弘は砂浜に座り直すと、服の砂を振り払った。沙織が隣に座った。直弘が沙織に昨日の彩華の告白の話しを話しだした。沙織は一瞬で険しい表情になったが、平常心を取り戻したのか、何時もの綺麗な表情に戻った。

 全て直弘が話し終えた所で、沙織が呟いた。
 「直弘君、どうするの?」
「当然、友達として付き合う積りだよ」
間を置かずに、直弘が答えた。
 直弘は深呼吸をして、これから言おうと思っている言葉を頭の中で整理していた。沙織は無言で直弘の顔を見詰ている。
「俺は、沙織さんの事が好きだし、彩華さんの事も誤解していて、やっぱり好きなんです」
子供みたいな答えだ。沙織は、一瞬の沈黙の後、「クスッ」と笑った。浪人生の戯言と、女子大生の余裕だ。
 「贅沢ですね、直弘君」
からかっているのか、本気で言っているのか、意図が読み取れない。それでも直弘は、沙織に思い切って電話番号とメールアドレスを聴いてみた。沙織は待っていたかの様に、携帯電話を鞄の中から取り出して、お互いに電話番号とアドレス交換をした。
 彩華にも、直弘は電話番号を聴く旨を伝えると、沙織は頷いた。三角関係の出来上がりだ。直弘は、決意が決まっていた。本日、彩華にも同じ事を言って、実家に帰る積もりでいた。
「じゃあ、今日、昼の12時に、彩華とコンビニで待ってるね」
沙織が座っていた体を起こし、立ち上がった。
「今日、彩華の電話番号を聴いたら、横浜の実家に帰る積もりです」
直弘が沙織を見上げながら、日差しが眩しそうに答えた。
「そうしてあげて。直弘君、サーフィンやっている場合ではないでしょ。私と付き合いたいなら」
 沙織が直弘の本心を聞いて安心したのか、高飛車な態度をわざとらしく言った。確かにそうだ。来年の大学受験まであと6ヶ月間しかない。沙織は嬉しそうに、数歩後ろに下がりながら直弘を見下ろしていると、急に向きを変えて背を向け歩き出した。

 昼になり、沙織と彩華に会いに行った。2人は、レジに揃っていた。沙織が眼で彩華の電話番号を聴く様に促していたので、その通りにした。彩華は喜んでいた。
 「今日、実家に帰る積りです。これ、俺の実家の住所と電話番号です」
直弘は、2人に住所と電話番号の書かれた紙を渡した。彩華が、
「電話とメールするね」
と言ったので、直弘は「いいですよ」と答えた。
「真夏にまた大浜に来ます」
そう言って、直弘は店の自動ドアを潜って外に出て行った。
 車に戻る直弘に、太陽光で熱せられた空気が、一気に汗ばませた。車のドアを開けて、直弘は運転席に乗り込むと、静かに車を道路に出すと、伊豆半島の北向きに車を走らせていた。

終章
生命

 生命について語りたい。
 生命とは、自発的に動く有機物と地球人類では考えられている。
しかし、殻を持つ生命を考えて欲しい。例えば貝である。貝は、成長と共に、その貝殻を巨大化させていく。亀にも同じ事が言える。
 人間は、成長と共に、骨を巨大化させて生きていく。いうなれば、人間と、前者は逆なのである。何が逆かと言うと、人間は骨格を内部に持ち、その周りに肉(筋肉・贅肉)を付けて地球上の重力に耐えて動き回って生きている。
 一方で、貝は貝殻という骨格の中に、柔らかい肉を持って生きている。

 最近はサプリメントなる、栄養補給剤が流行り出した。サプリメントの一つにカルシウムがある。このカルシウムの1系統に、貝殻によるカルシウムもある。人間の骨格である骨のカルシウムが、貝の貝殻から補給できるのである。
 著者は大学で、骨について学ぶ機会があり、骨は実はカルシウムCaだけで成り立っているのでは無く、タンパク質との複合材料になって、強度を保っている事を知りました。
 このカルシウムは、有機物なのか、無機物なのか?
 又、常識だが、人間の血液には鉄分Feが必要である。これが薄くなると血が薄くなり、貧血がどうたらこうたらと、医学的に言われている(血糖値によるものか)。
 だから、よく磁気ブレスレットだとか、磁気マグネットの体のだるさを回復する医薬品なり医薬部外品なりが出回っている。

 要するに、生命を成り立たせる物質は、有機物だけでは無く、無機物も必要なのである。では、無機物も塊、金属や岩石も生命を持っているのかという疑問が浮かぶ。
 考えを広げてみると、地球である。有機物(炭素C 酸素O 水素H を基本として)などからなる物質と、無機物(金属やセラミックの様なケイ素Si 系元素からなるもの)の複合材料である。
そして、自発的に動いている。内部のマントルの動きから、水流の動き、空気の動き、何より、人間を始めとする微生物を体内に抱えている。
 人間は、腸内に微生物を飼っていたり、酵素を沢山、体内に持っている。比較すると、地球と人間は似たようなものである。
ここで、地球は生命なのかという疑問が浮かぶ。先にも述べたが、微生物には脳も心臓も持たない生命が多々、存在している。木もその1つである。
 そう考えると、地球は生物なのか? 太陽系は生物なのか? 銀河系は生物なのか? 宇宙∞は生物なのか? という、疑問点が次々と出てくる。
何故なら、有機物と無機物の複合材料で、自発的に動いているからだ。

 今まで、人類は、広大な宇宙∞に、生物が地球上にしか住んでいないと考えてきた。それは余りにも、自分中心的な考えの様な気がする。
 そして、科学、とりわけ数学や物理学や化学で宇宙∞を解明しようとしている。絶対に、人間以外の高等生物を、宇宙∞の中で認めない人もいるだろう。
『 自己肯定 』と『 自己否定 』。自分が一番優れていると、考えている人が多すぎて、地球上では人間同士の衝突が絶えない。
 その考え方を一度正して、宇宙∞に目を向けてみると、宇宙の歴史は人間には理解出来ない程永く悠久の時間の中にいる事を認めて欲しい。

 広大な宇宙∞の事、地球大の生命も現実に存在しているかも知れない。脳を持ち、心臓を持ち、知性を持つ生物。
 先程、貝の話しをしたが、宇宙空間でも気圧の関係で、人間の様に生命の危機に晒されない生命も存在しているかも知れない。

 今、現在、地球に住んでいる人類が、例え地球の様に大気を持つ惑星があったとしても、移住するのは不可能である。
 例えば、その惑星が、地球の直径の10倍の直径を持っていたとしたら、ここでは計算はしないが、人類がその惑星に降り立つと、あまりの強大な重力Gに耐えられずに、地面に叩きつけられて、『 ペシャンコ 』になってしまうだろう。
 その理由は、重力(引力)というものは、互いの質量が大きくなれば成る程、大きくなっていくからだ。

 今、人類は転換期に入っている。
 このまま、地球環境を悪化させて行けば、やがて人類は地球を住みづらい惑星に変えてしまうだろう。
今まで、人類は太陽の寿命にばかり目がいっていて、地球の寿命を考えていなかった。人類は月面の土地の所有権を主張したりしているが、さて、それに意味があるのか。まず、人類は地球規模で我々の住む地球環境を健全に保ち、高い建物を無闇やたらに建てずに、環境について考えてみる必要がある。
核融合、核分裂を発見した人は、確かに秀才である。しかし、それが、現在、核弾頭という形で、我々人類を脅かしている。核を作る能力を競っていても、自爆する様なものである。
地球という同じ星に産まれた者として、読者に問いたい課題である。何せ、地球は有限なのだから。
宇宙∞は定義できないが、地球は定義できる。今、我々を地面に縛りつけている惑星の事である。